幕末から明治に if が許されるなら
2021年08月23日
NHK大河晴天を衝けも、徳川慶喜の名代として弟「武昭」がパリ万博へ渡航時に
渋沢栄一も、有能な実業家的手腕を買われて、随員の一人として同行しました。・・
・・・
しかし、約1年半に渡るパリ滞在中に、徳川幕府が大政奉還、そして鳥羽伏見の戦い
戊辰戦争へ、更に徳川慶喜は、「賊軍の長」として水戸藩、駿府での蟄居をよぎなく
されるという、正に、幕末の動乱の時を迎えていました。渋沢が帰国した時には、
既に戊辰戦争も終結して、明治時代へと大きく変革の途へと変わりつつありました。
・・・そこで、歴史は勝者が作るの習いの通りですが・・・あえて「if」 を・・・
それは、慶喜の良き理解者でもあり、後ろ盾でもあった孝明天皇が存命していれば、
薩長がつくった明治とは別の形で、慶喜が主導してイギリス型の政権が誕生していた
可能性もあったとされています。
一説には、岩倉具視が天皇の女官でもあった妹により孝明天皇を毒殺したとも伝えられ
岩倉や西郷や大久保等により15才の明治天皇を操って討幕の密勅を出し、徳川慶喜を
反逆者として討伐すべしというシナリオを作り出し、勤皇の志が高い慶喜が、錦の御旗
に服する流れへと・・・
豊臣から徳川の世へと移った時には、大阪城や佐和山城を完璧に破却し、その後の襖絵や
書物も全て徳川の正当性を映し出すものへと変えられたのと同様に、
明治の世も同じく、徳川を貶めることに終始し、自らの政権の正当化の手段として
薩長の下級武士出身の明治政府は、天皇の権威により国を治め、その後の大正昭和へと!!
・・・事ほど左様に、歴史の一コマを見ただけでは本当の事実はつかめません。
そこが歴史の面白さでもあります。
もうひとつの if は渋沢栄一がパリへ渡航していなければ・・・
栄一は、戊辰戦争のどこかで、戦死しており、日本の近代化は相当遅れていたかも!!
ドラマはまだまだ続きますので歴史好きの方はお楽しみに。
因みに、渋沢栄一は
「徳川慶喜公はいかに侮辱されても国のために命を捨てて顧みざる
偉大な精神の持ち主であった」そして
「日本の開幕を告げたのは薩長ではなく、徳川慶喜公」である。・・・とも