天下分け目の 関ケ原合戦の 史跡巡りへ!
2023年10月26日
NHK大河ドラマ「どうする家康」でも ”関ケ原合戦” が近づいてきたことから、いざ!関ケ原! へと。
昨日、秋空の下、名古屋からJRで、大垣での乗換え含めて1時間弱で「関ケ原」駅へ到着し、先ずは
駅から歩いて10分足らずで「関ケ原古戦場記念館」へと、数年前に開館したこの施設は明るく瀟洒な
建物で、開放感溢れるレストランでランチ、そして館内の映像展示で合戦状況を鑑賞して、そして
ボランティアガイドさんの案内で2時間ほどかけて東西両陣営の武将の陣跡の史跡めぐりへと!
黒田長政、竹中重門陣跡の説明をうけ、笹尾山の石田三成陣跡では、両陣営の合戦時の解説を聞き、
コスモスの花が咲き誇っていた、島津義弘陣跡では、1600名程で戦況を最後まで動かず見守って
いたが、西軍敗戦が濃厚になる中、自刃した大谷吉継以外の多くの西軍武将が敗走する中にあって
家康本陣方向へと中央突破して、多くの犠牲をはらいながらも薩摩へ帰ることが出来た武勇伝は
地元薩摩のみならず、この関ケ原の地でも石碑とともに語り継がれているとのことでした。
東軍、家康陣営が勝利したのは、戦前に西軍武将に対して様々な調略により、本来であれば西軍の
陣営であるはずの小早川秀秋他多くの武将が東軍に寝返ったことである。と言われていますが、
あくまでも結果論であって、400年以上の前、どうであったのか、小早川秀秋が関ケ原一帯を見渡
せる松尾山から、西軍が優勢と見て取れたならば、どう判断下したのだろうか?10年程前にこの
松尾山の頂上まで登ったことがありますが、戦況全てを見渡していたに違いありません。
もし、小早川秀秋軍15000が西軍に参陣していたら?毛利陣営も参戦し、島津義弘も西軍として
参戦していたならば?・・・ひょっとして、西軍が勝利していたかも?!
・・・とは言っても歴史は結果が全てで、そして歴史は勝者が創り出しますから!!